長府乃木神社
長府乃木神社は、山口県の城下町、長府地区にある。
この地区には、多くの寺や神社、長府藩侍屋敷等の歴史的建物が、数多くまとまって存在している。
司馬遼太郎著、「坂の上の雲」で、かなり辛口の描写を得て以降、乃木の評価が下がった感もあるが、やはり一角(ひとかど)の人物であったと思う。
そのような乃木神社に、参拝の機会を得たことを嬉しく思った。
乃木神社は、小振りで、ひっそりと佇んでいた。
乃木への感銘は、明治天皇の崩御に際しての「殉死」。
1912年9月13日、明治天皇葬儀の時、天皇を追って夫妻で自害したことに、多くの日本人は衝撃を受け、感銘し、涙した。
京都の明治天皇陵の傍に乃木を祀り、北海道、栃木、東京、香川、山口にも乃木神社が建てられた。
それは当時の人々の、「乃木さん」の赤誠と、生き方への限りない追慕の証だった。
この時の状況を当時の「東京日日新聞」は次のように伝えてる。
「乃木大将は偉いコッタスナア、不言実行ヤリハッタ。学者は屁理屈ばかり言いよるけど、大将は偉いっ・・・と」、さらに、「電車の中にての話題も、最も新しい出来事たる乃木夫妻の自殺にて持ちきり、中には涙を浮かべて、感に耐えぬ様子をなするもの者あり」と。
山口では、大正3年(1914年)、乃木の郷里の長府に乃木記念会が結成され、乃木が幼少時代を過ごした旧家を復元した。
そして、幼少期の像や遺品などを展示する「乃木記念館」が創立され、大正8年(1920年)、乃木記念館に隣設して乃木希典を祀る、乃木神社が造営された。
その武功のみならず、旅順要塞攻略後、降伏したロシア兵に対する寛大な処置、特に水師営の会見では、ステッセル将軍や幕僚にも着剣させ、共に並んで撮影させる等、武人の誇りを尊重した行為は、世界の称賛を得た。
両将軍は互いに相手の武功を褒め讃え、ステッセルは、乃木に愛馬を寄贈した。
また、ステッセルは、ロシアに帰国後、軍法会議で死刑宣告を受けたが、それを知った乃木が助命運動を起こし、自筆の助命嘆願書をロシア政府に送った結果、禁錮10年に特赦減刑された。
乃木希典(のぎまれすけ)
長府藩士。陸軍大将。1849年11月11日江戸麻布の長府毛利藩邸に生まれる。
10歳の時、長府へ帰り集童場で学ぶ。学習院長などを務め、祖国愛と忠孝の道義に徹した至誠の人で、1912年9月13日明治天皇葬儀の時、夫妻で殉じた。