興味の壺

メカデザイン、機器デザイン、プロダクトデザイン、伝統的アーキテクチャー等を紹介します。

上賀茂神社

正式名称は、賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)。
京都で最も古い神社のひとつ。
賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)(通称:下鴨神社)と共に、古代の賀茂氏の氏神をまつる神社として賀茂神社(賀茂社)と総称され、両社をもって一社のような扱いをされてきた。
雷の神威により、厄を祓い災難を除く厄除けとして、また、都が京都に移されてから鬼門の守り神として崇められる。

上賀茂神社 二の鳥居 上賀茂神社 二の鳥居
画像は、京都で定年後生活から。

御祭神は、賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)。
玉依姫命(たまよりひめのみこと)の子であるとされる。

玉依姫命は、神武天皇(初代天皇)の母。
外祖父(母方の祖父)は、鴨建角身命(かもたけつぬみのみこと)。
鴨建角身命は、神武天皇が東征して熊野から大和にはいるとき、八咫烏(やたがらす)と化し、天降って天皇を先導したとされる。
なお、鴨建角身命と、玉依媛命は、賀茂御祖神社の御祭神。

皇位継承に伴う、一世一度の儀式は「大嘗祭」である。
「大嘗祭」を主催し、そのすべてを取り仕切るのが、賀茂神社。
伊勢神宮と賀茂神社は表裏一体の関係にあり、表の神道において全国の神社の頂点に立つのは伊勢神宮。
しかし、裏神道において事実上全国の神社の頂点に立ち、実質的な権限を握っているのは賀茂神社(特に下鴨神社)と、言われている。
ならば、一般的に我々が目にする、賀茂神社や加茂氏の説明は、表層の一部。
探せば、加茂神社に関する不可思議な歴史や、役割を目にすることが出来る。
(その真偽は不明だが、皇位継承に深く関与していることを考えても、全てを否定することは出来ないと思う)

加茂神社や、古代日本への興味は無尽。
興味は尽きないが、我々に、事実は遠い。
個人的には、それを受け入れ、見守る他ない。
大和の民族の誇りと共に。

上賀茂神社 細殿 上賀茂神社 細殿
画像は、ハッケン!ジャパンから。

参道から二の鳥居をくぐると、正面に「細殿」(ほそどの)がある。
細殿は、天皇、上皇の参拝の際の著到殿(ちゃくとうでん:入御して装束等を整える御殿)である。
細殿の前には、白砂を円錐形に盛り上げた、一対の「立砂」(たてずな)がある 。
賀茂別雷神が降臨したといわれる、「神山(こうやま)」を模し、神を招く憑代(よりしろ:依り憑く対象物)の役割を果たす。

個人的に、次の二棟は、形式として興味深く映った。

上賀茂神社 橋殿 上賀茂神社 橋殿

橋殿(はしどの)は、御手洗川の上に建てられた殿舎(御殿・やかた)である。
橋殿の役割は、賀茂祭において、天皇から派遣された勅使が、御祭文(神仏に対する天皇の御言葉)を奏上する場所である。
御祭文を授けられた宮司は、それを神前に供えた後、橋殿北側にある影向石の上に蹲踞し、返祝詞を、橋殿で待つ勅使に奏上する。
御手洗川は、神域と俗界を分ける「境界」であり、その境界上に建つ橋殿は、神域と俗界をつなぐ装置なのだ。

上賀茂神社 土屋 上賀茂神社 土屋

土屋(つちのや)は、神主以下の社司の著到殿として使用されていた建物。
始めて見る土屋の形式は、ひどく新鮮で、実に簡素だが、軽々しさは無い。

参考
下鴨神社内の摂社(本社と縁の深い神を祭った社)に、河合神社がある。
祭神は、玉依姫命。
河合神社に鎮座する境内末社に、任部社(とうべのやしろ)がある。
任部社は、河合神社創祀のときより祭られている社。
御祭神は、八咫烏命(やたがらすのみこと)。