川西 紫電改
ずんぐりした機体が特徴的な、旧日本海軍局地戦闘機、紫電改。
ずんぐりしたデザインが、この機のアイデンティティであり、それはそれで悪くないと思っている。
Kawanishi N1K2-J Shiden-Kai
Source:AIRLINERS
歴戦の海軍パイロット達は、紫電改の登場で、「これで死なずに済む」と言った。
当時の最新米軍機と互角に戦うことができた。
戦後、米軍でのテストでも、陸軍「疾風」と共に、その優秀性が確認された。
緒戦では、華々しい活躍を見せたゼロ戦だったが、米軍に捕獲された後は、弱点を徹底的に分析され、非力な発動機、火器、軽量化のために無きに等しい防弾と相まって、P51ムスタング、F6Fヘルキャット等とは、まともに戦うことができず、熟練パイロットの技量で補うのみだったのである。
この紫電改を見るために、四国に渡った。
四国愛媛には、日本で唯一、紫電改が展示してあるのだ。
展示施設は、愛媛の九州側を走り、高知に近い場所にある。遠いし、行きにくい場所である。
どうして、このような場所に展示してあるのか?
実は、この付近の、愛媛県南宇和郡城辺町久良湾の海底に沈んでいるのを発見され、引き揚げられたのである。
その機体がレストアされ、南予レクリエーション馬瀬山公園内の「紫電改展示館」(愛媛県南宇和郡愛南町)で展示されているのだ。
1945年(昭和20)7月24日、アメリカ軍を迎撃するため、豊後水道に向けて発進し、その戦闘による未帰還機6機のうちの1機だという。
当時、紫電改は、全海軍からエース級パイロットを集めて編成された剣部隊と称する、343海軍航空隊に優先して配備された。
そして、343航空隊の主要基地が、四国松山、鹿児島鹿屋、長崎大村基地だったのである。
剣部隊(343航空隊)とは、日本本土周辺の制空権を奪回するため、真珠湾攻撃の航空参謀だった源田実大佐のアイデアによって創設された部隊である。
優秀なパイロット、偵察部隊を有し、戦術をそれまでの「3機編隊」から「2機編隊」へ変更、改良された高性能無線機による連携、高出力発動機搭載の高性能局地戦闘機(紫電、紫電改)を重点配備した、最強の迎撃部隊であった。
アメリカでの紫電11甲型(N1K1-Ja)。中翼の主翼と二段伸縮式の主脚が判る。
Source:The Pacific War Online Encyclopedia
文字どうり紫電改は、紫電を改良した機体。
紫電は、水上戦闘機「強風」をベースに、陸上型戦闘機に変更されたものである。
いずれも、川西航空機(現在の新明和工業)で設計、製造された。
紫電の機体の大部分は、「強風」のままであり、そのため、フロート対策としての中翼式であるため、視界が悪く、主脚を長くせざるを得ず、その構造が複雑で故障、事故が多発した。
また、空戦時に機体速度と機体荷重(G)に応じ、自動でフラップを最適な角度へ下げる自動空戦フラップも「強風」から引き継がれた。
(これは、フラップを下げることにより、旋回半径を小さくして急激な方向転換を可能とする装置)
元海軍エースパイロット本田稔氏は語る。
紫電改は、紫電の改良型だったが、まったく別の機体だった。
胴体は紫電より細く、中翼が低翼になって視界もよくなり、何といっても操縦性が抜群に向上した。また、機体が大きく変わったことで、これまでの自動空戦フラップの性能が格段に向上した。
それにより、機体重量はゼロ戦よりずっと重いが、ゼロ戦と同じくらい舵が利き、抜群の操縦性だったと。
また、主翼、胴体内の燃料タンクは全て防弾仕様で、自動消火装置を装備。そのため、被弾しても発火せず、操縦席前方は防弾仕様だった。
トラブルが多発した二段伸縮式主脚も、主翼の低翼化に伴い廃止され、部品点数を紫電の2/3に削減し、量産性を大幅に高めた。
紫電改には、陸軍疾風と同じ、高出力「誉」エンジンが搭載された。
しかし、故障が多く信頼性に欠けた。
数々の空爆と熟練工や資材の不足により、まともなエンジンの製造は難しかった。
2千馬力級高性能、高信頼性エンジンの開発。高性能過給機の開発。それにあった機体の開発。その全てが後手後手だった。
紫電改の登場と、343航空隊の活躍は抜群の迎撃結果を残した。
しかし、その全ては遅すぎたのだ。
(紫電改の総生産数は約400機にすぎなかった)
南予レクリエーション「紫電改展示館」の紫電改。側面。
主翼と胴体の繋ぎ目の大きなフィレットが判る(フィレット:気流の干渉による抵抗の増加を防ぐため、取り付けられる結合部の覆い)。
Source:滑子航空機,覚書
南予レクリエーション「紫電改展示館」の紫電改。後方から。
Source:滑子航空機,覚書