興味の壺

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旧閑谷学校

旧閑谷学校 講堂 旧閑谷学校 講堂

350年前に建てられた郷学(庶民のための公立学校)。
郷学とはいいながら、当時の藩学をしのぐ規模を持った最古の学校建築。
講堂は国宝に指定されている。
日本の国宝建造物のほとんどは寺社建築だが、旧閑谷学校講堂は、国宝に指定された唯一の学校建築。
2015年、旧弘道館(茨城県)、足利学校跡(栃木県)、咸宜園跡(大分県)と共に日本遺産に認定された。

備前藩主池田光政が、庶民の教育を目的として1670年に設立した。
(池田光政は、徳川光圀、保科正之と並び、天下の三名君と呼ばれた)

池田光政は、家臣津田永忠に命じ、後世にまで残る学校を目指し建築をスタート。
現在目にすることのできる閑谷学校の姿が完成したのは、光政没後の1701年である。

津田永忠という傑出した人物無くして、閑谷学校無く、岡山藩政の基盤整備の充実は無かった。
閑谷学校の建築を始め、新田干拓、後楽園造営、吉井水門、防波堤等、数々の土木事業を行ってきた。

旧閑谷学校 石塀 旧閑谷学校 石塀

実に印象深い施設だった。

教育の大切さを十分理解していたこと。
適切な環境で、人材を育てる。
その為の施設、建物は、完璧なものとする。
といった信念が、具現化していることを実感する。
このような施設が、素晴らしい状態で保存されていることに感動した。

旧閑谷学校 石塀 旧閑谷学校 石塀

何より驚くのは、蒲鉾型の石塀。
厚くて丸い、今まで見たこともない石塀の形状。
これが、周囲を囲む。

石の目地から雑草が生えないよう、内部の割栗石は、徹底的に水洗いし、土や種を取り除いて詰めている。
そのため、現在も雑草が全く生えていない。
また、石塀の下には、2m以上も基礎が築かれている。

信頼感、安心感は抜きん出ているが、丸っこい形状のため圧迫感は無い。
どの様な理由から、この厚さや形状になったのか、見当はつかない。
とまれ、一見の価値はある。

敷地は、北側に山を背負っている。
山からの水の影響を、徹底的に排除している。
湿気は、木造建築物にとり最大の厭忌事項。

山と、敷地の間には、排水溝を設置し、敷地東側に逃がす。
敷地の北半分は切土で、南半分は、1m位の盛土になっている。盛土部分の下には、暗渠を設け、地下水を南側に逃がす。
また、石垣の下には栗が敷かれており、暗渠としても機能していると、言われる。

旧閑谷学校 講堂天井 旧閑谷学校 講堂天井

旧閑谷学校 講堂内部 旧閑谷学校 講堂内部

旧閑谷学校 講堂屋根水抜 旧閑谷学校 講堂屋根水抜

そして、講堂。
耐久性を高めるため、様々な工夫がなされている。

瓦は、固く焼しめられた、備前焼。
現在も、ほとんどの瓦が当時ものである。
瓦の固定には、壁土を用いず、桟に引っかけているため、壁土の風化を心配する必要がない。
万一、瓦の下に浸み込んだ雨水は、屋根外に排水されるよう配慮されている。

土台表面には、赤土や貝殻を焼いた石灰に松脂や酒を混ぜたコーティング材が打たれ、湿気を遮断し、建物を保護している。

柱は、変形を防ぐため心持材を用いず、丸太を四分割し、丸く仕上げて用いている。
良質の建材と、完璧な施工により、300年経った今でも、寸分の狂い無く立ち続けている。

池田光政、津田永忠の理念、熱意、そして執念。
考え抜かれた工法。
名も無い職人達の卓越した技。
その表象は、今も耀きを持って佇む。

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参考資料
閑谷学校 資料館
1905年(明治38年)私立中学閑谷黌の本館として、閑谷学校の学房跡に建設される。
以後、県立中学校・高等学校として利用されてきた。
明治時代の木造洋風建築の特徴をよく残した建築物とされる。

旧閑谷学校 資料館 正面 旧閑谷学校 資料館 正面

旧閑谷学校 資料館 北側 旧閑谷学校 資料館 北側

参考資料
大多府漁港 元禄防波堤
1698年、岡山藩により築港された大多府港の石積防波堤。
今だ、現役の港湾施設として機能している。
津田永忠の指揮によるものと推測されている。曲面状に石を二段に積んだ構造で、頑丈で美しい外観を有する。
形状は、旧閑谷学校の石塀を想起させる。

大多府漁港 元禄防波堤 大多府漁港 元禄防波堤
参照:岡山観光WEB