興味の壺

メカデザイン、機器デザイン、プロダクトデザイン、伝統的アーキテクチャー等を紹介します。

興福寺

境内の、迫力ある伽藍、そして、多くの仏教建築群には本当に驚く。
迫力はあるが、虚勢とは無縁。
簡素でありながら、堂々の存在感。
伝統を踏まえ、設計者の主張を極力控えたように映る。

興福寺 東金堂(国宝) 興福寺 東金堂(国宝)

興福寺 東金堂 ディテール 興福寺 東金堂 ディテール

当時の仏教の力。
そして、感化力の顕現化というものに驚く。
いや、感化力というのは正鵠を得ていない。
信仰への思い ― 仏陀への信頼。

本堂の中金堂は、復元中だった。
しかし、他の全ての建築群は素晴らしいものであった。

興福寺は、奈良市登大路町にある。
法相宗の大本山。
南都七大寺(注1)の一つに数えられる。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺。
古代から中世にかけて強大な勢力を誇る。
平安時代には春日社の実権をもち、大和国一国の荘園のほとんどを領して事実上の国主となる。

慶応4年(1868年)に出された神仏分離令は、日本全国に廃仏毀釈を巻き起こし、春日社と一体の信仰が行われていた興福寺も、壊滅的とも言える打撃を被る。
行き過ぎた廃仏政策が反省され、ようやく、1897年(明治30年)、文化財保護法の前身である「古社寺保存法」が公布。
興福寺も再建が始まり、徐々に寺観が整備され、現代に至る。
寺に塀が無く、公園の中に寺院がある状態は、廃仏政策の名残。

東金堂(国宝)は、中金堂の東にある建物。
力強く、シンプル、清楚、堂々。
神亀3年(726)に聖武天皇が叔母の元正太上天皇の病気快癒を願って造られた。
薬師如来像を本尊とする。
6度の被災、再建を繰り返し、現在の建物は応永22年(1415)に再建。室町時代の建築。
様式は、唐招提寺金堂を参考にした天平様式。

興福寺 五重塔(国宝) 興福寺 五重塔(国宝)
画像は、「古寺とお城の旅日記」から。

東金堂の隣(南側)にある、五重塔(国宝)。
この塔も、清楚、シンプルでありながら実に堂々としている。
五重塔(国宝)は天平2年(730)、光明皇后の発願で創建された。
その後、5度の被災、再建をへて、現存の塔は応永33年(1426)頃再建。
高さ50.1メートルで、木造塔としては東寺五重塔に次ぎ、日本で2番目に高い。

興福寺 南円堂(重要文化財) 興福寺 南円堂(重要文化財)

興福寺南円堂。
入口側は多少仰々しく、全体が把握しにくいが、裏側は建物のバランスも良く、趣のある八角堂だということが判る。
南円堂(重文)は弘仁4年(813年)、藤原北家の藤原冬嗣が父・内麻呂追善のため創建した八角堂。
現在の建物は、寛政元年(1789年)再建。

興福寺 北円堂(国宝) 興福寺 北円堂(国宝)

興福寺北円堂(国宝)。
かなり小振りだが、まとまっていて、バランスも良くシンプル。
日本に在る八角円堂で最も美しいと言われる(らしい)。
現在の建物は承元2年(1208年)頃の再建。興福寺の建物の中では最も古い。法隆寺夢殿と同様、平面が八角形の「八角円堂」。 写真提供:奈良市観光協会

興福寺 三重塔(国宝) 興福寺 三重塔(国宝)
画像は、「古寺とお城の旅日記」から。

興福寺三重塔(国宝)。
この塔も、小振り。しかし、まとまりがよくシンプル。
北円堂と共に、興福寺最古の建物。
治承4年(1180年)に被災し、まもなく再建される。鎌倉時代の建築だが、平安様式を伝える。

注1:南都七大寺(なんとしちだいじ)は以下。
興福寺(こうふくじ、奈良市登大路町)
東大寺(とうだいじ、奈良市雑司町)
西大寺 (さいだいじ、奈良市西大寺芝町)
薬師寺(やくしじ、奈良市西ノ京町)
元興寺(がんごうじ、奈良市中院町、芝新屋町)
大安寺(だいあんじ、奈良市大安寺)
法隆寺(ほうりゅうじ、生駒郡斑鳩町)
法隆寺は斑鳩に所在しているため、代わりに唐招提寺を入れる場合もある。