筥崎宮
国道を挟みながら、博多湾の箱崎浜から本殿まで長い参道が続く。
参道の長さは、この神社が、生い立ちや歴史から只者ではない何かを訴えてくる。
筥崎宮 桜門
境内に入り、正面にある桜門上部の扁額には、金色に輝く「敵國降伏」の文字。
激しい気合表明に、思わず、唸る。
容赦無用!
殲滅!
などというイメージが激しくよぎる。
筥崎宮、凄いなと思った。
1274年、最初の蒙古襲来(文永の役)。
蒙古連合軍の規模と攻撃は凄まじく、対馬、壱岐は壊滅。
北部九州一帯が戦場となり、多大な犠牲を強いられた。
この時、筥崎宮は焼失。
(蒙古連合軍の攻撃によるものかどうかは不明)
しかし、九州から集った鎌倉武士軍の奮闘により、蒙古連合軍は撤退。
(暴風雨によって蒙古連合軍が撤退したのではない)
文永の役後の社殿再建時、亀山上皇陛下により寄進された宸筆(直筆)「敵國降伏」を拡大模写し、桜門上部の扁額に入れたという。
上皇陛下の宸筆の想いは、希望であり、期待であり、鼓舞だと勝手に思っている。
1281年、二回目の蒙古襲来(弘安の役)。
元、高麗軍合わせて約15万を乗せた軍船4400艘が、日本を撃つべく出航。
これは、史上例をみない世界史上最大規模の艦隊だった。
しかし、日本は、博多湾岸に約20kmにも及ぶ石築地(元寇防塁)を築く等の防衛体制を整えており、蒙古連合軍は博多湾岸からの上陸を断念。
日本軍はよく奮闘し、蒙古連合軍を押さえ込んだ。
そして、連合軍が博多湾に進攻して2か月後の夜半、颶風(ぐふう)の襲来。
連合軍、約4,000隻の軍船のうち、残存艦船は200隻であったという。
日本の自助努力に天の御加護は、間違いなくあったのだ。
筥崎宮の扁額、「敵國降伏」。
その象徴。
そして、民族の誇り。